神様のさじかげん
どんなにつなごうとしても、つながらない縁もある。
なんとかしてつなぎとめようとしても、切れてしまう縁もある。
でも、その一方で、気づいたときにはつながっていて、続いていく縁もある。
出会いそのものに、強い意思も、とくべつな努力もない。
探して見つけたものではない。
そのつながりを「がんばって続ける」わけでもない。
エネルギーを投入しなくていい。
ぼけーっとしてても、いなくならない。
それぞれ自分の居場所にいるだけで、あえて近づいたわけじゃなくて、
落ち着く居場所が、たまたま近かったってことなのかな、と思う。
無理してつないだ縁だったら、がんばり続けないと切れる。
おたがいに、本来の落ち着く居場所はそこじゃないから。
夫とわたしは、このタイプだなと思う。
関係を維持するためにつぎこんだエネルギーは、計り知れない。
わたしが疲れ果てて、もうがんばれなくなって、関係が壊れてしまったけど、そのおかげで大事なことに気づけた。
「わたしは、がんばらなくていいことをがんばってたんだ」ってこと。
そこに気づいてしまったら、もう、元に戻るっていう選択肢はない。
この世界には、「がんばらないと続かない縁」と、「がんばらなくても続く縁」があること。
自分のまわりには、「がんばらないと合わせられない相手」と、「息をするのと同じくらい自然にいっしょにいられる相手」がいること。
そういうのに気づけたのは、結婚で失敗したおかげだと思う。
なので、夫との縁も、わたしには必要なものだったと思う。
縁ってふしぎ。
自分で選んでいるようで、見えない力で決まってるみたいな気がする。
そこらへんは、神さまの「さじかげん」なのかな。
出会いがぜんぶ、単なる偶然だったとしても、
つながるのも、つながらないのも、続くのも、切れるのも、たぶんそれぞれ、わたしに必要なものなんだろうなあ。
なにか学ぶべきことが、あるんだろうと思う。
学び終わった縁はいずれ切れるだろうから、ほっといてもいいのかもしれないけど、
なかなか進まない離婚話(進んでないわけではないけど)を、年内に決着つけたいな。
正しい居場所で生きられるように。そのままのわたしで生きられるように。
まずは素直なわたしでいること。
あとは神さまのさじかげん。