花の終わり
ともだちが、蹴上の浄水場のツツジの写真を送ってくれた。まるく整えられたツツジが、おだんごみたいでかわいい。
ともだちが、ツツジは咲き終わりの花の汚さが苦手、と話していて、そういえばわたしも昔から、ツツジの最後は汚いと思ってたのを思い出した。その感覚を、とくに掬いあげてみたことはなかったけど、わたしも確かにそう思ってた。
小学校から高校まで12年間歩いた通学路の長く続く坂道に、ほぼ切れ目なくツツジがあった。新学年に慣れてきた頃、ツツジはいつも朽ちていた。花びらが落ちておしべだけだけがぴょんぴょんしてるものや、変色した花びらがへばりついてるもの、とにかく、きれいなものではなかった。
それに比べて、散る花はきれいだなと思う。桜とか、ユキヤナギとか。咲いてるときと、散るときと、また違う美しさがある。「終わり」を軽やかに、潔く次の季節に進むような、明るさがある。
散らずに、その場に縛りつけられたまま朽ちていく花は、どうしても汚く見える。あんなふうに老いたくないなと思う。
わたしはこれから、どんなふうに年齢を重ねていくんだろう。時とともに「うつろう」というよりも、段階的に、自主的に、「うつる」変化にしていきたい。抗えない老化を仕方なく受け入れていくのではなく、潔く、軽やかに、うつくしく、次へ次へと変化していけるわたしでありたい。
でも今は、潔く散ることを望む以前に、わたし、そもそも咲いてないなあ。
だれも見たことがない、だれにも見せたことのない、わたしの花。咲くときは、どんなときなんだろう。そして、どんな花なんだろう。
67年に1回しか咲かないモウソウチクみたいなレアな花かもしれないけど、いつか自分の花に出会えるよう、その日まで、根を広げ、葉を広げ、空にむかって背を伸ばして生きていたいなと思う。
フロリゲンが足りないのか、フロリゲン感受性が低いのか、そもそも成長が足りないのか、わからないけど、とりあえず今のわたしにできるのは、花の土台を育てるための光合成ってところかな。葉緑体はもってないけど。