雑記 雑感 エトセトラ

日々、思考回路を暴走中。

めりくます

JUDY AND MARYの『クリスマス』が好き。

こういうクリスマスっていいなあと思う。

 

ごちそうや、豪華な贈り物なんかいらなくて、ただそこに、いちばんのよろこびも、いちばんのかなしみも、この人と分け合いたい、と思える人がいて、その人のとなりで、この人がいてよかったなあって神さまに感謝してる、みたいな、そういう過ごし方。

(犬は苦手なのでいらないけど)

 

形ではなくて、物ではなくて、心が満たされるって、いちばんすてきなことだと思う。

クリスマスに限らず、季節の行事やお祝いは、感謝のきもちやよろこびに包まれて、こんなふうに過ごせたらいいなと思う。

 

たぶん、夫と価値観が大きく食い違った部分のひとつは、こういうところだと思う。

 

夫は、よろこんだり、感謝したり、たのしんだり、という気持ちよりも、まずは形式が大切で、徹底的に形にこだわった。そして、できるだけ上等な贈り物があることを大切にしてる感じだった。

小さなケーキより、大きなケーキ。ささやかな贈り物より、百貨店で買った「きちんとしたもの」。

物をもらうことや、お金をかけてもらうことを、大切されている証とでも思うのか、とにかく「物」や「見栄え」をよろこぶ感じだった。

 

わたしには、そういうのがぜんぜんわからなかった。百貨店で買った、わたしの趣味とはかけ離れたアクセサリーをもらうより、心のこもった手紙を一通もらうほうが、何倍もうれしいのに、夫には理解されなかった。物をもらうより、大切にされている実感が得られるような、態度とか、行動とか、そういうもののほうがうれしいのに。

 

わたしは「高価なだけ」のものをもらっても、よろこべなかった。

同じように、夫も、気持ちや手紙では、よろこべなかったんだと思う。

どっちも、ほしいものはそれじゃなかった。

 

相手の気持ちをくみ取ることはできる。でも、心の中ではお互いに、理解されないことに不満を積み重ねていたと思う。少なくともわたしはそうだった。

 

今年の誕生日。夫が大きなケーキを買ってきた。わたしが話しかけても数か月にわたって無視をしたり、脅迫めいた態度で追い詰めてきたり、こっちが嫌がってること強要したりしてくるのに、「愛情たっぷり」と言わんばかりに豪華な大きなケーキを買ってきた。気持ちはうれしい。謝罪の気持ちもあったのかもしれない。でも、わたしがほしいのはそういうものじゃなかった。

 

大きなケーキより、尊重され、大切にされ、わたしがわたしらしく居心地よく暮らせる毎日がほしかった。

大きなケーキを前にして、わたしは笑えなかった。よろこべなかった。心からよろこんでいないわたしに夫が怒りの感情を抱いているのがわかった。こわかった。

 

自分の誕生日も、夫の誕生日も、こわくていつも怯えてた。こどものお宮参りもお食い初めも七五三も、希望を言っても排除され、不満を抱えながらもがまんして、夫の機嫌を損ねないよう細心の注意を払いながら、緊張して当日を乗り切った。

お祝いなのに、いちばん大切な「心」がいつも死んでた。

 

なんで長い間、こんな状態で暮らしてたんだろう。変なの。「こんなの変だよ」って、なんで気づかなかったんだろう。

 

これからは、形にかんじがらめにされることなく、わたしはわたしなりのやり方で、こどもの成長や季節の行事を、祝ったり、大切にしたりしていきたい。

形や物は、あってもいいし、なくてもいい。

クリスマスも、お正月も、形より、物より、いっしょに過ごす人たちの心がいちばん満たされるように、よろこびあえる時間になったらいいな。

 

以上、ジュディマリの『クリスマス』との比較にもとづく、自分の結婚生活の考察でした。ずーっとつらかったけど、こうして抜け出してから振り返ると、もうあんな日々どうでもいいなあ。

笑って話せるわたしになれた。だからわたしは、もうだいじょうぶ。

 

それではみなさん、少し早いけどメリークリスマス。

サンタさん、わたしがいちばんほしいものは、今年じゃなくても構わないので、生きてるあいだにどうかください。

いちばんほしいものは、誰にも言えないけど、サンタさんがくれたときにはみんなにいっぱい自慢する。

サンタさん、まってます。

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