すべては無意味なスクリーンショットから始まった
昨晩、変な時間に目が覚めた。
仕事をするきもちにもなれなくて、本を読むきもちにもなれなくて、なんとなくスマホを手にとって、なんとなく思いつきで、スマホでマトリョーシカを作ってみた。
スマホの中にスマホがある。そのまた中にスマホがある。スマホ6段重ね。ちっちゃくてかわいい。
スマホマトリョーシカを作ったのは、単に「思いついたから」で、なんのために?と聞かれて「愛のために」とか「あなたのために」とか答えられたらすてきだけど(←奥田民生)、まったく何のためでもなく、他者にとっては完全に無意味。でも、わたしにとっては、おもしろかったから意味はある。
そういえば、わたしが人からされて困る質問の第一位は「なんのために?」
人生で何度か、その質問に困惑したことがある。行動には、なにか目的がないとだめなのだろうか。「おもしろそうだったから」「なんとなくやってみようと思ったから」という理由だけで動いてるわたしには、相手を満足させるだけの答えがひねりだせない。だいたいまぬけな返事しかできない。
そもそもわたしには、「なんのために生きてるのか」がわからない。そんなことを考える意味もわからない。どうせ考えてもわからんし、目的がなくても生きてるし、生きてることを楽しんでる以上、生きることには価値がある。だから、生まれてきたことを感謝して、ただ生きてる。みんなには目的があるんだろうか。
生きてる中でやり遂げたいことはある。子どもたちに一人で生きられるだけの力を養い、人を愛せる心をもつ人に育てること。それは使命として、生きている限りまっとうしたいけど、それが生きる目的なのかと言われると、そうでもない。やっぱりわたしには、目的なんてない。
生きる価値、命の価値ってなんなんだろう。わたしにとっては、わたしが生きてることに価値がある。生きてないとできないことがいっぱいあるから。やりたいことがいっぱいあるから。
ほかの人にとってはどうなんか知らんし、地球からしたら「こいつほんま二酸化炭素放出するだけのやつだなー」って感じかもしれんけど、自分で自分の命に価値があると思えるなら、それだけでいいと思う。
わたしの命に価値を見いだして高値で買い取ってくれる質屋があったとしても(怖!)、絶対売りたくない。
でも、もしもわたしが何らかの事情で脳死になったら。そのときには、わたしの生きる価値の判断は、ほかの人に委ねるしかない。
脳死になったら、わたしにとっては生きてる価値がなくなる(楽しいことできないから )。だけど、動けなくても、目覚めなくても、わたしの体に血が通い、まだわたしに命があるということに価値を見いだす人がもしいたら、延命してくれてもいい。してくれなくてもいい。使える臓器があるなら、誰かにあげてほしい。
わたしには、自分の死を誰かに悲しんでもらいたいという願望はない。でも、自分が死ぬときに、わたしのほうから「ありがとう」と思える相手が、一人でも多くいたらいいなと思う。わたしが思ういい人生って、そんな感じ。お葬式に来てくれる人の数より、わたしの心のなかにいる、大切な人の数。大切なできごとの数。
あれ?!
スマホでしょーもないマトリョーシカを作ったのを自慢したかっただけなのに、最終的にわたし死んでる。。。
ま、そんな思考の大旅行も、わたしらしいからまあいいか。長旅だった(笑)
ちなみに、スマホマトリョーシカに使っているLINEのトークは、自分一人だけでグループを作ったもので、自分用のメモ帳として使ってるもの。別のアプリでメモをとるより、よく使うLINEでメモとったほうが便利かな、と。
マトリョーシカに写りこんでるおかしな独り言は、ブログ用のネタのメモだったけど、こうして写ってしまうと、なんかけっこう恥ずかしい(本心かつ事実なだけに)。