雑記 雑感 エトセトラ

日々、思考回路を暴走中。

手と足と、イモと芽と

「手順を踏む」ってよく言うけど、「踏む」って表し方がおもしろい。「足」順じゃなくて「手」順なのに。押さえるんじゃなくて、「踏む」なんだ。

言葉ってふしぎでおもしろい。

 

ところで、手も足もでない困難な状況に陥ると、わたしはいつも『がじゃいも』を思い出す。とんねるずの。「手も出なきゃ足も出ないが芽は出るぞ」っていうあれ。

 

わたしの30代は、見えない何かに縛られて、手も足も出ない難問続きで、それでもそれなりに突き進んで、突き抜けて、今がある。だから今のわたしは芽だらけだと思う。

 

なにを目指して生きたらいいの。なにも目指さず生きてていいの?

なにがしたいの。どうなりたいの。

なにかを打ち破るように出てきた芽。だけど、方向性の定まらない、無秩序な芽。

 

じゃがいもの芽には毒がある。わたしの芽にもあるかもしれない。食われてたまるかと思ってる。切るのも伸ばすのも、選ぶのはわたし。

 

今のわたしは、今までのわたし(いも)が蓄えてきた栄養で、次の時代を生きるわたし(芽)を育ててる。そろそろ蓄えもなくなりそうで、交代のときが来てると思う。芽から葉を出し、光を浴びて、次の時代を生きるとき。

 

生物がどこまでも連続していられるのは、死ぬものと生まれるものがあるからで、そのバランスを保つ上で、「死ぬ」ということも、大切な役割だと思う。

いもは死ぬ。そして次の芽が生きる。いもが死なずに残ってたら、地球はじゃがいもで埋まってしまう。次の芽が生きる場所もない。

 

だからもうすぐ、今のわたしは死ぬ。新しいわたしをここに残して。悩んで苦しんで見失って、それでも必死に生きたわたしを終了して、新しいわたしが始まる。

 

芽を出す力があるうちは、光をめざして生きていたい。わたしらしさが輝く形に、無秩序に伸びた芽のなかから、どの芽を伸ばすか、選びたい。

 

「手順を踏む」の話から、擬人法じゃがいもワールドが広がってしまった。

思考回路も無秩序すぎて、収拾つかないわたしです。